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人々の皆既日食1


何年か前にテレビで皆既日食の実況中継がありました。

確か、中東の方からインド、東南アジアにかけて移動する皆既日食と共に

人々の様子が地上と上空から映し出されていました。

ある地域の人々はその地域で皆既日食が始まるや

不吉なので川の水の中に身を沈めて日食を避けていました。

また、別の地域では逆にお祝いをして神様に感謝していました。

テレビ中継は上空からこの人たちを映していました。

私は、川に身を隠したり、お祝いをしている人たちを見て

感極まるような感覚がありました。

理屈を超えて人間の尊さをひしひしと感じました。

尊い信仰心をもった人たちが世界にはたくさんおられます。

私の周りに、神社に行く人を見下げる人がいます。

おそらく小さい時からそういう宗教心や

あるいはマジョリティに対するひがみを持った家庭で

育って来たのかなと思います。

この人はテレビに映っていた人たちのことは

どう思っているのでしょうか。

文化の違う他国の人達にはまた違った見方だと思いますが。

クリスチャンであれ仏教徒であれ、多くの信仰者は

元々の信仰(イエスキリストや釈迦の教え)よりも、

家族や自分の周りにいる文化的習慣に浸った信仰者からの影響を受けて、

その文化や習慣を信仰の一部と思っているのではと思います。

イエス様もお釈迦様もがっかりされるのではないでしょうか。

もう一つ例を挙げさせて頂きたいのですが。

亡くなる間際の弱っているに違いない人を

健康に生きている家族が

一方的な信仰心で

改宗させようと懸命になっている。

そして、死ぬ前になんとか受け入れてくれましたと

宗教コミュニティーで笑顔で報告している様子を見て、

私は涙が出そうになりました。

説得された方はどう思ってこの世を去って行かれたのでしょうか。

死ぬ時に自分の信仰は間違っていたと説得させられて

人生を否定することになったのかも知れません。

そうでないことを祈るばかりです。

あるいは、もしかしたら家族の言うことを

最後に聴いてあげることで家族を喜ばせてやれて満足して亡くなられたのかも。

でも、信仰は自分の心の中の問題ですから

ふりをすることが出来るものではありません。

人生の最後に喜ばせるためとはいえ、

うそをついてしまうことになります。

皆既日食に対する信仰が人それぞれであるのと同様に

それぞれの真面目な清い信仰があるのは自然なことだと思います。

人間の理解に基づく信仰の統一は、神様から見るとどのように見えるのでしょう。

死に直面している人をコントロールする(脅す)ようなことはとても“福音”だとはいえません。

たとえ本人がこころからの気持ちで改宗されたように見えたとしても

正常ではない状態の人にプレッシャーを課すというのは

非常に不健全で恐ろしさを感じます。

もちろんプレッシャーのない環境で、

本人からの自然な申し出があれば問題ないと思いますが、

健康なときに受け入れなかったことを

この世との別れの時に、今がチャンスとばかりに

無理強いしているように思えてなりませんでした。

その人の為というよりも、自分たちの満足の為に

操作しているとは言えないでしょうか。

家族は恐らく本人の意思であることを信じているのでしょう。

もちろん、本当にそうなのかもしれませんが、

少なくとも正常な判断ができる状態とは言えないでしょう。

実際、その家族の方からの報告がなされた時、

周りの人たちは淡々と聴いておられた方が多かったと思います。

祝福の動作はあったかと思いますが

心からの喜びを家族に向けられた方は居られたのかわかりません。

やはり、亡くなられた方の告白が

本当に健全に神様の祝福と共にあったのかどうか

分からないからだと思います。

私はその無意識の正直な反応に少し救われた気がします。

イエス様ならどうされるのでしょうか。

たとえ本人の心からの意志でなく、

周りの人たちの希望に合わせただけであっても、

天国での再会を信じていれば、と仰るのでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんや

亡くなる間際のお年寄りをコントロールし、

自分たちの満足を優先することは

罪深いことだと思います。

「「自分の幸せ」の押し付けが

戦争を引き起こしている。」

所謂「アメリカの正義」を例に挙げて

苫米地博士は仰っておられました。

状況は違いますが、強い信念や信仰を持っている人は

自分自身を神様の側から観てどうなのか、

耳を傾けておく必要があるのではないでしょうか。

神様の無条件の愛とはどういうものなのか、

イエス様ならどうされるのか、

言葉で説明できる人はいないでしょう。

ただ、少なくとも、自分の生きてきた文化や習慣に縛られていては

見えて来ないのではないでしょうか。

ここに大きなヒントがあるのかもしれません。

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