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人々の皆既日食2


自分の生きてきた文化や習慣から覚醒し、

乗り越えた先により大切なものがあると思います。

人間の生きてきた経験や知識は本当にちっぽけ。

そこに縛られては未来のポテンシャルを狭めて

やはりちっぽけなものにしてしまうのではないでしょうか。

ところで、今多くの西洋の人々も(科学者、特に物理学者)、

仏教徒といって差し支えないと言われています。

何故なら今やお釈迦様の教え(縁起の思想)は現代物理学の到達点と本質的に同じだからということです。

彼らの多くは、自分のことをブディストとは思ってはいないでしょう。

しかし、結果的に同じ到達点にいるということです。

このことから、思ったのですが、

科学ではなく信仰の面からいうと、

後世の人々が作ってきた仏教文化ではなく

元々の教えにフォーカスすれば、

多くの人々は論理的な考えにおいても

お釈迦様の教えを自然に受け入れることが出来ると言うことだと思います。

キリスト教でいうと、

後世の人々が作ってきたクリスチャン文化ではなく、

神様イエスキリストにフォーカスすればいいということです。

つまり、神様の無条件の愛は誰を通す必要もなく、

直接神様から受けることが出来ると言う

シンプルで普遍的な発見は

多くの人とシェア出来ると思います。

文化や習慣の影響を受けると

純粋にイエス様からの教えに辿り着くのに

様々な障壁に会うことになると思います。

(仏教もまた同じことが言えます。)

例えば、キリスト教でいうと、

聖書の具体的理解を周りの人と共有しないと

あなたはクリスチャンとは言えないというようなことです。

世界は6日間で出来たとか。

ノアの箱舟のお話しは事実だとか。

お葬式などで仏事習慣に則った行いをしてはいけないとか。

どちらにしてもそのことを共有しないと

私はクリスチャンですと胸を張って皆に言い辛いということです。

仏教で言うと

お仏壇を拝まないといけないとか、

戒名を亡くなられた方にお供えするとか

卒塔婆を作るというようなことです。

これは、日本文化の中で生きてきた人でないと

全く受け入れられないことです。

そもそもお釈迦様の教えに反しています。

だから、私の個人的経験からも言えますが、

元々の御教えに辿り着く前に、

様々な障壁があって、

日本では信仰上の難民が増えているように思えます。

またその間に、うつ病などの精神的問題にかかったり、

カルト的宗教に心が囚われることもあるのではないかと

私は思っています。

文化や習慣にとらわれず、

御教えにフォーカスすれば

差別や偏見はかなり少なくなるのではないでしょうか。

よって戦争もなくなっていくと思います。

聖書を人間の限られた知識で理解すると

信仰はちっぽけなものになってしまうと思います。

“隣人を愛せよ”

自分の生きてきた習慣から理解するのではなく

神様の高みからイメージしてみると

神様の無条件の愛というものに

少しでも近づけるのではと思っています。

他人の子供を自分の子供と同じように愛せる。

他国を自国と同じように愛せる。

神様から見れば人間が理解する宗教も同じこと。

他の健全な宗教者を同様に愛する。

文化は文化として理解し、

楽しく付き合っていけば良いのではないでしょうか。

戦争や差別、根強い偏見、

私たちの現在の世界を、

神様の高みから俯瞰してみると

どのような風景が現れるのでしょうか。

今まで見えなかった何かが

人それぞれに見えてくるはずです。

人生にわたって何度も何度も繰り返しトライしてみると

またより素晴らしい何かが

その時々に見えてくるはずです。

迷路で困っている人を

高台から見ると、

道が見えてくるように。

「なんでこんなところで迷っていたんだろう。」

「こんな道があったんだ。」

信念や信仰のことを考えるとき、

自分の視点を

抽象度の高いところへ置いてみることが

いかに大事なことであるか。

俯瞰して見えたもの、

そこから得られた新しい気付き、クリエイティビティは

今、目の前にある現状に

大きな影響を与えるのではないでしょうか。

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