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アリータ:バトル・エンジェル

初め見たときは、好きな映画だが、ちょっとグロテスクな感じのする、バイオレントなシーンが気になって気が引けてしまった。というか、ジェームス・キャメロンさんの作品ということで期待していたのとはちょっと違ったんです。


ですが、今、この一年で最も多く何回も観ている映画になっています。

理由は、先ず、英語に慣れたいと思って時々洋画やTVショーを観ているのでモチベーションがあるということです。DVDなどで何回も観れるものをよく探しています。


次に、この映画の原作は日本人であること。しかも、未だインターネットのない30年以上前の作品です。主人公の動きや演技パフォーマンス、スタイルに日本の武術テイストが何となくですが感じ取れます。派手なアクションもあって、そこはちょっとグロテスクで、引いてしまうようなところもあるのですが、武術臭くないさり気ない和の華麗なテイストは何度見ても飽きません。


また、もう一つ、ポイントは、アニメによくある事なのでしょうが、主人公の自分に秘められたポテンシャルへの気づき。この過程が私の無意識にいつも語り掛けてくれるように感じるところです。非常な危機の瞬間を経験するたびに、自分の本来の姿、ミッションを部分部分ではありますが、徐々に、鮮明に、無意識に実感していくのです。





実は、最後のこのポイントは、ほとんどすべての人に言えることだと思っています。

私を含め、ほとんどの人は本来の自分らしさ、自分の存在理由に無頓着と言いますか、先ず見えていないと思います。よくジャンプ傘に例えられますが、本来の自分が開こうとしているのに閉じた状態にずっといます。ボタンを押せば一瞬で開くのに、ボタンがあることも、ボタンの意味も知らないし興味がない人がほとんどではないでしょうか。


自分が今まで親や先生、世間の人に言われてきた来た事を

無意識にまで自分の生きる道だと思い込んで生きて、

多くの人がそのまま人生を終えていくのではないかと思います。


自分の人生を生きることは、


周りからの影響を主体にして生きてきた人には

非常に難しいことなのかも知れません。


アリータが自分のことに気づいていく過程は

私には非常に感慨深いです。


「アニメだから」とか「漫画でしょ」と言ってしまうのは、

自分が閉じたままのジャンプ傘である可能性に思いもよらないか、

全く関心がないことの表れだと思っています。


この映画のタイトルの一部である、「バトル・エンジェル」は、

表面的には人々を搾取支配する敵と戦いやっつけることから来ているように見えますが、

実はもっと人間の深い「罪」に対するものではないかと思います。

マインドという意味では、

人間がこれまで当たり前と思ってきたこと、

思い込んできたことに対するものと、今では受け止めています。

それは、健康に健全に生きることに対する「罪」。


この「罪」をやっつける天使が、

「バトル・エンジェル」


人間が本当に健康的に生きることを阻害するものとなってしまう「罪」。

周りの人々、世界の人々のためにイキイキと生きることの障害かもしれません。


人から思い込まされるのではなく、

自分の人生を生きることが

本来の人間の健康的な生き方かもしれないと

思えるかどうか。


自分ではなく、親や世間の人生を生きることに全く問題を感じない人は、

そのまま時には我慢して生きることが当たり前のことと思ってしまうのだと思います。


自分は自分の人生を本当に生きているのか。


親や恩師、友人、社会のためにしたい事は、

本当は何なのか。



→ つづき


#アリータ:バトル・エンジェル

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